徳島昭和知識
昭和30年代後半から40年代にかけて、日本の景観は急激な変貌をとげている。
高度経済成長は、日本の原風景ともいうべき美しい自然環境や景観を開発という名のもとに改造・破壊することで進められた。
都市の高層ビルの乱立や派手な看板で埋め尽くされてていくなかで、徳島市は高度経済成長の大きな波には乗り切れず、町の景観はゆっくり変貌していった。
皮肉なことに、それが豊かな自然や静かで落ち着いた風景を残すことにもなった。
今もなお残る旧観が世代を超えて伝えてくれるものは少なくない。
徳島駅前周辺
昭和30年頃、南国徳島の風情を象徴するワシントンヤシが植えられ、昭和58年にそごうデパート徳島店が進出。
徳島駅前のビル高層化が始まる以前は、飲食店・喫茶店・食肉店・新聞販売店などが軒を連ねていた。
東新町商店街は県下の中でも特に賑わいをみせ、両国本町はお盆に景気がいい街だった。
鳴門・板野の風景
この辺りは昭和30年代後半から昭和40年代にかけて急激な変貌を遂げている。
鳴門市中心部は見渡す限りの塩田地帯であったが、今ではどこにも見られない。
藍住町は昭和30年に愛園村と住吉村が合併して誕生し、平成11年には人口が1万人から3万人へと急増。
広々とした田畑は宅地化により減少の一途をたどった。
荷馬車
昭和30年頃にはまだ荷馬車が街を行きかっていた。
こども達は馬車を見つけると喜んで荷台の後部にすがりつく姿が見られた。
あの有名なテーマソング「ロバのパン屋さん」も当時はロバや馬が馬車を引いていた。
バイクやスクーターの流行で、やがて荷物の運搬はリヤカーやオート三輪、トラックへと変っていく。
行商
昭和30年代前半、身近にスーパーマーケットなどの量販店もなく、商品の流通も限られており、食材を手に入れるのも一苦労。
集落出入りする様々な行商の人達は、野菜や果物、魚をはじめ、パットライスや風鈴などとともに庶民に夢と安らぎを与えていた。
ファッション
当時和装の女性が好んで結った流行りの髪型は、アップスタイル!
幼児の流行ファッションは、毛糸の帽子と前掛け!
鳴門海浜にて、ワンピース型水着は当時流行の最先端!
大衆娯楽
昭和30年代、鳴門海峡で水上スキーが流行!
鳴門市内には複数の映画館や劇場があり人気を博したが、東京オリンピックを契機にカラーテレビが急速に普及し、徐々に客足が遠のいていった。
子供たちの間では、チャンバラ、ビー玉、めんこ遊び、馬跳びなどが流行り、路地裏や街角で遊ぶ姿が見られた。
昭和40年、パチンコは庶民の身近な楽しみのひとつだった。
今も残る風景
石井駅舎そばのクスノキ。
徳島市のベッドタウンである石井町の交通の要として、朝夕人々で賑わった石井駅舎。
それを覆うほど大きな楠木はいまも同じ場所に佇んでいる。
鳴門市と大毛島を結ぶ渡船。
小鳴門橋が完成するまで、住民にとっては欠くことのできない交通手段であった。
今も民間会社に委託され、人と自転車を運んでいる。
写真・文章引用:
- 1.「徳島市・名東・名西今昔写真帖」
- 2.「鳴門・板野今昔写真帖」
- 株式会社郷土出版社
- 監修:三好昭一郎
- 3.「変わりゆく徳島の街並み」
- 徳島県立文書館